オイラの言葉は誰にも届かない
24時間残念営業さんの「ひょっとして俺はマッチョだったのでは」とか、ブログのPVを上げる方法とか、アフィリエイトでン万円を儲ける方法とか読んで、(・3・)ふーん、みんな読んでもらうために大変だなーとか思ったり(店長の昔語りはちょっと違うか)。
オイラは、あんまり書きたいから書いているとか、誰かに見てもらいたいから書いているとか、考えていない。まあ、オイラが書いたネタ(プログラムとか)が有用に使われるのはうれしいけど。
このブログは、その名の通りオイラの「備忘録」なのですよ。
というのも、自分の考え方はカオスチックで直感型なのだ。
脳味噌の中身をブチ垂れているので、誤字脱字はふつうだし、文章がおかしいのも当たり前。(見直して書き直すのが面倒なので校訂しないし)
→その実、オイラは無意識で動く割合がすごく高い。最近、とみに高くなってきていると感じている。考えるのが疲れるし苦痛なのだ。
なので、無意識がフル回転して意識に考えさせないようにして、自動的に動く。
仕事も、動き始めは考えるところが多くつらいのだけれど、そのうち、慣れてくると目と手だけが動き始め、流れ作業になっていく。
まあ、こういう仕事の仕方をしていると、当初の目的を見失って迷走してしまうのだが。
→でも、こういう仕事の仕方をしているとブラシュアップされない。
だって、考えてよい方向を絶えず検討しないと、技術は向上しないもの。
だから、「書き続けていれば、文章がうまくなる」というのは頷けない。
ただ、だらだらと書き続けていても、それは同じようなものの再生産、書いている中身は違えども根柢ではコピーしているのと変わらない。
お年寄りが同じような話を何回もするのと同じっすよ。細部は変わったとしても進歩がない。
→話を元に戻すけど、無意識で考えると、疲れにくい(疲れていることを意識しないというのが正しいか)し結果が早く出るというメリットがあるけれど、やっぱりいきなり結論がでてくるので、それは記憶に残りにくいという欠点がある。
なので、このブログに書いている。
まあ、どっかチラシの裏にでも書くようなレベルは、自分のノートに書いておけよという話もあるかもしれないけれど、すぐに忘れてどこかにやっちゃうもの。といわけで、インターネットで見たり書いたりできるブログが最適というわけ。PCにローカルで持っていても、HDDがぶっ飛ぶこともあるしー。
→年を取ると、経験から考えることなく無意識に作業ができるようになるし、そうなると外界に意識が向きにくくなってくる。これが究極的になると、これって哲学的ゾンビじゃね?と思ってしまう。
そういえば、最近、人に対する情が薄れてきている。このままいくと、自動人形みたいになるのかしらんとか思ったりして。この状態は、正直、社会的動物な人間としては、失敗作だなとも思う。
→というわけでブログを続けるのには「何か言いたいことを強く持っている」必要はないし、「思いを人に届かせる」必然性もなくてもいい。見てもらうためのノウハウは必要な人が得ればいいんじゃないのくらいにしか感じない。
書きたい人はなんでも書けばいいし、読みたい人は読めばいい。意識して読ませたい記事を書く人はそれはそれでいいし、そういう界隈があるよねーでいい。
ある群を全体とすることは、ほかの群を否定することにであって、それは自分の世界が全てで他は認めないという狭量でしかない。さまざまな人たちを包括できる世界なんだから、それはもう存在して、否定されて変化する・しないはその人それぞれ。
自分たちの世界で、その方面の技能を磨くにはどうすればいいかって話なら分かるけどね。
ま、オイラみたいな駄犬が吠えても、誰にも届かないだろうけど。
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