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2008年2月16日 (土)

「神は沈黙せず」を読んでいる途中で考えたこと

山本弘さんの「神は沈黙せず 上」を読んでいます。

神についてや知性体について言い尽くされていることをテーマにしてあるし、話の内容も然り。でも現実のことも織り交ぜて書かれているので、リアリティがあって我々の現実と小説の中がごっちゃになって、なかなか面白い。

さて、今回はこの本のテーマについて思考をたゆたせたことを書いてみようと思います。ネタばれに近いことを書くので、一応隠しておきますね。
読みたい方は下の”続きを読む”を展開してください。
その前に宣伝をば。

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この小説のテーマは、「神は存在するか」というところから、世界の矛盾から世界の成り立ちとなぜ世界が創られたのかという話になる。
ぶっちゃけ鈴木光司氏の「ループ」なのだけれど、今 読んでいるところは上巻の後半部分なのでこれからまだまだ続く。「ループ」とは違いざっくり終わらせられるということはない、と思う。
んで、知性体とはという話が出てきて、ここの部分に考えさせられた。

オイラが考えるに、知性体とは「外的・内的環境を認識しその影響を受けて自らの行動を変更する。その功労の中には環境への影響をフィールドバックすることも含む。それは他の知性体とのコミュニケートがとれることも含む」ことかなと。
逆説的になるけれど、異質な知性体とコミュニケートが取れなければそれを知性体とは認識できない。認識できない知性体は、知性体とは言えない・・・。
あー、でもコミュニケートってなんだって話になるな。会話や身振り手振り、書いたものなど外界に影響をあたえる手段を使って相手に自分の考えを伝え、相手に伝わったと自分が認識できること、か。あー、でも認識ってなんだって(ry

なにか考えて行動しているように見えるものは、いくつもあるわけだが、その中でコミュニケートが取れるものは絞れてくる。犬が尻尾を振るとか、猫が餌くれとニャーとなくとか。
対象が人間でもコミュニケートが取れないものは、知性がない。:-p

インターネット網自身が総和として意識(知性)があるのではという空想をしたことがある。では、なにを考えているのか人間にそれは認識できるかというと、概念的でありあまりにも大きすぎることから、積極的なアプローチが向こうから来ないと不可能であると。
インターネット網っていったのは、巨大で実体があるのだけど、部分は構成要素でしかなくそれ自体ではないという、「物があるけど概念的なもの」の例として思いついたというか感じたというか。いうなればガイアとか八百万の神とかそういった感じなのかもしれない。
漠然としすぎて何を言っているのかわからなくなってきたけど・・・。
もし神がいるならば、この世界を構成しているもの(時間、空間、素粒子などなど)ではないのかなと空想してみたりして、それでは我々人間に対してなにか感情を持つかというと、感情という人間の器で検討するものではないなと考えた。
神は無慈悲なのではなく、ただそこにあり、無慈悲や慈悲といった概念を含まないものであると。

一般的な”神”と称される概念は、結局は人間が思いついた矮小なもので、権力装置でしかない。そのようなものに、固執し振り回されて、思考停止に陥った愚かなままでいる人類はいかがなものか。
”神”からの縛めから解き放たれて、人としての善良性で世界を良くしていけばいいじゃんと考えているのだが、地球上のリソースがそれを許さないんだから、神は残酷だ。:-p

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